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脅かしてやるつもりだったんだ、本気で刺すつもりなんかなかったんだ……っ
元々、身内の前でしか威張り散らせないような肝の小さい男だったんだよ。 ガクガク震えて今にも泣き出しそうだった。
何やってんだよっ! 早く救急車呼べよ!
オレがタオルで母さんの傷口を押さえながらそう怒鳴っても、父親は全然動かなかった。 動けなかったんだ。
オレじゃない、オレが悪いんじゃない、とただ呪文のように繰り返してた。
使い物にならない父親は放っておいて、オレは自分で救急車を呼んだ。
何回かタオルを取り替えながら救急隊員が来るのを待った。
オレが母さんにかかりきりになっている間に、父親はどこかに逃げて行ってしまった。
ホントに最低な男だよ。 やっぱり殺してやればよかった。
医者や警察に色々聞かれたけど、母さんは自分の不注意で怪我したって言い張った。
オレにも絶対余計なこと言うなって口止めして……
何も証拠がなかったし、切られた本人が言い張ってたせいもあって、最後には母さんの言い分が通った。
母さんは幸い命に別状はなかったけど、キズが神経にまで障っていたせいで……腕に後遺症が残ってしまった。
オレを庇ったせいで……
それから間もなくして、オレと母さんは父親から逃げるようにこっちに越してきたんだ。
父親とはそれ以来会ってない……
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伊吹は一気に話し終えると、
「以上がオレの思い出したくない、サイテーな過去」
と肩をすくめて、「他には? 何が知りたい?」
と疲れたような目線をあたしに向けた。
「あの……っ ごめん、あたし……」
伊吹にそんな過去があったなんて……
そんな思い出したくない過去があったなんて知らなくて……
伊吹のこと知りたかった。 知ればもっと伊吹に近づけると思ってた。
でも、あたしがそれを聞いたせいで、伊吹にまたつらい過去を思い出させてしまった。
いくら知らなかったこととはいえ……
それに法子さんのことも……
すごく大事にしてるってのは分かったけど、まさかそんな事情があったなんて知らなかった。
あんまり法子さんに気を使うから、
「マザコンなんじゃないのっ!?」
なんて言っちゃったこともあった。
そんなつらい時期を一緒に乗り越えてきたんだもん。 伊吹が法子さんを大事にするのは当然だ。
しかも法子さんは伊吹を庇って大怪我までしている。
そんな大変な経験を2人はしてきたんだ。
血は繋がっていないけど、血以上に太く確実なもので2人は繋がっていたんだ。
「……なんでお前が泣くんだよ」
「だ、だって……」 |
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伊吹が眉を寄せる。
「だから話したくなかったんだよ。 同情とかされたくない」
「同情じゃないよっ!」
あたしは涙を拭った。「ただ……伊吹がそのときどんな気持ちだったか考えたら、胸が詰まっちゃって……っ」
「オレの気持ちはオレにしか分からない。 テキトーなこと言うなよ」
「テキトーなんかじゃない! ……伊吹がお母さんを亡くしてどんなに悲しかったか、お父さんのことでどれだけ辛い思いをしてきたのか想像したら……」
「……やめろよ」
「法子さんとのことだってそう。 血が繋がってなくたって、2人はちゃんと親子だよ! 思い合ってる! 本当の親子以上に親子だよ!」
「やめろって」
「法子さんを思う伊吹の気持ちがやっと分かっ…」
「やめろっつってんだろっ!!」
伊吹がドンとテーブルを叩いた。「……あんなドロドロした胸くそ悪くなるような過去を勝手に美談にすんなよ」
「伊吹……」
驚いて伊吹を見上げる。
「オレの気持ちが分かるって? ……どうせ、つらい過去に傷付いてそれ乗り越えて、今は血の繋がらない母親を大事にしてて立派だ…とか思ってんだろ? 笑わせんなよ、オレはそんなんじゃねぇよ!」
伊吹が怒っている。
怒りのエネルギーで爆発しそうなぐらい、伊吹は怒っていた。
「オレはそんな偉い人間じゃない! 勝手に美化するなっ! オレはあのろくでもない父親と同じ……いや、それ以上に最低な人間なんだよ」
「伊吹……違う…っ ちょっと待っ…」
あたしは首を振った。
違う。 そうじゃない。
あたしは伊吹を怒らせたかったんじゃない。
あたしはただ伊吹に……伊吹の気持ちに寄り添いたいだけだ。
「……お前さっき、オレが失恋した相手が誰かって聞きたがってたよな」
急に伊吹が話を変えてきた。
言われて思い出したけど……そうだ。
この話を始める前はそんなことを聞いてたんだった。
「どうせなら全部話してやるよ」
伊吹が顔を歪めるようにして笑う。「オレが失恋した相手は、母さん。 椎名法子だよ」
「え……」
「抱きしめて、キスして……オレのものにしたいと思った相手は母さんだよ」
思わず固まってしまった。
伊吹の失恋した相手が…… 法子さん……?
「ほら、驚いた」
あたしの顔を見て伊吹が楽しそうに笑う。
「サイテーだろー? オレのことを心配して世話焼いてくれて、あのクソ親父から庇って大怪我までしてくれた母さんを、オレそんな目で見てたんだよ。 しかも、知らなかったとはいえ、オレを産んでくれた母さんを死に追いやった原因を作った人だよ? そんな人好きになっちゃったんだよ、オレは。 ホントあのクソ親父の言う通りだったよ。 いい根性してるよな」
「い、伊吹……」
伊吹は笑いながら頭を抱えた。 |
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「オレどうかしてる、おかしいって、ずっと否定しようとしてた。 このおかしな感情を無くすために違う女と付き合ってみたりもしたけど……」
それが琴美だったの……?
「やっぱり違うんだよな。 母さんに抱いたような愛しさが全然湧いてこない。 ただその子のことを傷付けただけだった……って、これはお前も知ってるか」
伊吹は自嘲気味に笑って顔を上げた。
「でも、オレがそんなバカなことをしているうちに、本当に諦めなきゃいけない状況になった。 ……母さんに好きな男が出来たんだ」
「え……」
「オレたちがあのクソ親父から逃げるためにこっちに引っ越してきたときの不動産担当者……お前の父親だよ」
法子さんはパパのお客さんだったの? 知らなかった……
「お前の父親はオレたちの境遇を知って、色々親身になってくれた。 オレも母さんと一緒に何回か食事に連れてってもらったりして……すぐに分かったよ。 お前の父親も母さんのことを想ってるって」
そういえばパパ、再婚の話をするとき、
「3年位前から想ってたんだけど……」
って言ってた。
あたしたちが中2……ちょうど伊吹がこっちに越してきた頃なんだ。
「お互い想い合ってるのに2人の仲はなかなか進展しなかった。 原因は分かってる……オレがいるからだ。 母さんはオレを放って別な男のところになんか行けなかったんだ。 ホント邪魔なんだよ、オレは」
「そんな……邪魔なんて思ってないよ、法子さんは……」
あたしがそう言うと伊吹は笑って、
「アホ。 そんなこと知ってるよ。 母さんはそんなこと微塵も思う人じゃない。 ……だからだよ。 だから余計に邪魔になりたくなかった。 ……お前の父親もいい人だって分かったしな」
「あ、ありがと……」
「オレが高校に上がった頃から、母さんは何回かプロポーズされてたみたいだな。 はじめは断ってたみたいだけど、母さんの気持ちは知ってたから……オレも、しなよって言ってやった。 母さんには幸せになって欲しかったから……オレじゃ母さんを幸せには出来ないって分かってたから。 ……あとはお前も知ってる通り!」
と伊吹は両手を広げた。「相手にワガママな娘がいるとか?…多少の心配はあったけど……まあ、お前の父親だったら、母さんを悲しませるようなことしないだろうって思ったわけ」
「ちょっと! ワガママな娘って誰のことよっ!?」
とあたしが伊吹を睨んだら、伊吹は楽しそうに笑って、
「さて、問題です」
と人差し指を立てた。「母さんの人生に……この家に必要じゃない人間が1人います。 一体誰でしょう?」
「は? え、なに……?」
急な質問に戸惑っていたら、
「お前が当てられたらオレは出て行かない。 外れたら出て行く」
と伊吹は早口で付け足した。
外れたら出て行くって……
「え、ちょ、ちょっと待って……っ」
とあたしが慌てる間もなく、伊吹は、
「はい残念、時間切れーっ!」
とあたしに手の平を向けた。「答えはオレでしたー!」
「……なに言ってるの。 意味分かんない」
間髪入れさせない伊吹の行動に、軽く腹が立った。
「分かんないの? これだから文系は……バカだなー」
伊吹は笑っていた。
何がおかしいのか知らないけど、伊吹は笑っていた。
そんな伊吹に余計腹が立ってきた。
「文系は関係ないでしょっ? ……ていうか、どっちがバカなのよっ!? そんなこと…っ」
「そんなこと誰だって分かるだろ? 新しい家族作るときに、前の男の子供なんかいたら邪魔に決まってるだろーが」
「それ言ったらあたしだってそーじゃん! 前の奥さんの子供じゃん!」
とあたしが抗議したら、
「お前は血が繋がってるだろ」
とぴしゃりと言い捨てられた。「オレとは違う」
「それは……っ」
……そんなことを言われたら、どう返していいのか分からない。
―――でも、違う……
伊吹の考えてることは間違ってる。
どうやってそれを伝えたらいいんだろう……
「しかも、あのろくでもない男の息子だよ? 母さんがいくらこの先幸せになっても思い出すじゃん、昔のこと。 オレの忌々しい顔見たらさ」
「忌々しいとか……」
とあたしが首を振りかけたら、伊吹の方が先に首を振った。
「忌々しいんだよ。 実際、オレだって自分の顔を鏡で見るたび忌々しくなるんだから。 ……段々あの男の顔に近づいてってる気がするんだよ」
「違う…… 伊吹、それは違うよ……っ」
伊吹のこと邪魔だなんて……必要ないなんて思ってる人間は1人もいないよ!
ましてや忌々しいなんて……
あたしもパパも……もちろん法子さんだって、誰もそんなこと思ってない!
「以上、オレのサイテーな過去と、オレがここを出て行く理由おわり!」
と伊吹はパンと手を叩いて立ち上がった。「なんか腹減ったな〜、今日の晩飯ってカレーだっけ?」
そう言って伊吹はダイニングテーブルの方に座り直し、
「よそえ。 軽めにな」
と命令してきた。
もう伊吹はこの話を終わりにしようとしている。
……これで終わりなの?
……それであたしは納得しないといけないの?
―――伊吹がこの家から出て行くのを、あたしは黙って見送らないといけないの?
「………とく出来ないよ」
あたしの呟きを聞き取れなかった伊吹が首を傾げる。
「? ……さっさとよそえよ。 腹減ってんだって」
〜〜〜今は伊吹のお腹のことなんかどうだっていい!
「そんなの納得出来ないよっ!」
「は?」
ドスドスとダイニングテーブルに近づき、伊吹を見下ろした。
「なにそれっ!? そんなの勝手に決め付けないでよっ! 誰が伊吹のこと邪魔なんて言ったのよっ!? あんたが勝手に思ってるだけでしょっ!」
「……また泣くのかよ。 ウゼーんだよ」
伊吹が眉間にしわを寄せてあたしから視線を逸らす。
「ウザいのはどっちよっ! あんたのその考えの方がウザいっ!!」 |
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「はぁ?」
「忌々しい過去を忘れられないのは法子さんじゃない! 伊吹だよっ! 伊吹だけだよっ!!」
「お前……っ」
伊吹の顔が険しいものに変わる。
「さっきオレを美化するなとか言ったけど…… 伊吹こそ、自分を悲劇のヒロインか何かと勘違いしてるんじゃないのっ!? バッカみたいっ!!」
「……もういらねー。 寝る」
そう言って伊吹はダイニングテーブルから立ち上がった。
「伊吹は悲劇のヒロインなんかじゃないっ! ただの普通の高校生だよっ! 勘違いすんな、バカっ!」
あたしが怒鳴りつけるのを無視して、伊吹は自分の部屋に行こうとする。
「伊吹は自分がキライなだけっ! だからそんなつまんない考えになるのっ! 伊吹は普通の高校生だよっ! 徹平とかと何も変わらないっ! なんでそれが分かんないのっ! 〜〜〜伊吹っ!!」
階段を上りかける伊吹の腕をつかんだ。
「……放せよ」
「やだっ!」
と伊吹をつかんだ手に力を込めた。「さっきの取り消すっ!」
「は? ……さっきのってなんだよ?」
伊吹が眉を寄せてあたしを見下ろす。
「伊吹のこと絶対好きにならないって言ったの、取り消すっ!!」
「は…」
「伊吹が自分のこと嫌いでも、あたしは好きだからっ! 誰が伊吹のこと嫌ってもあたしだけは好きでいるからっ!!」
「お前……」
伊吹が驚いたように目を見開いた。
「あたしが伊吹を幸せにする! 絶対してあげるっ!! だからこの家から出てっちゃダメっ!!」
伊吹を1人になんかさせない。
絶対させない!
自分を不幸だなんて思い込んだまま……自分を嫌いなまま1人になんかさせない!
伊吹に好かれなくたっていい。
迷惑だとか、ウザいとか…… どう思われたって構わない。
伊吹のことはあたしが幸せにする!!
伊吹がちょっとだけ眉を下げてあたしの顔を覗き込む。
「……泣くなっつーの」
あたしは鼻をすすりながら、
「……どうせなら、ウザい、も付け足せば」
と言い返してやった。 すると、伊吹は微かに笑った。
「タオルは?」
「……リビング」
そんなの持ってくるヒマなかったもん。
あたしが手の甲で涙を拭っていたら、
「あーもう!」
と伊吹の呆れた声が降ってきた。 そして軽く頭に手を添えられて、
「拭いとけ」
と、そのまま伊吹の方に抱き寄せられた。
頬に伊吹の鎖骨が当たる……
嬉しいはずなのに、その頼りなげな鎖骨や胸板になぜか余計に涙が込み上げてきた。
「……お前、ホントにバカだな」
伊吹はあたしの頭を微かに撫でながら、「つまんない約束すんな」
と呟いた。
あたしは伊吹のTシャツを思い切り引っ張って涙を拭いた。
「……つまんないかどうかはあたしが決める!」 |
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やっぱり伊吹にとって、あたしの気持ちは迷惑にしかならないのかもしれない。
でも、もう、あたしだって気持ちを抑えることなんか出来ない。
口が悪いくせに優しいところも。
自分のことは無頓着なくせに人のことは気に掛けてくれるところも。
男のくせに華奢な肩も、頼りなげな胸板も……
伊吹の全部が愛しくてたまらない。
だから……
―――絶対あたしが伊吹を幸せにしてみせる!!
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第5話 おわり
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ひとつ屋根の下 Top |