Cube!   第4話  the DeputyB

朝より雪が強くなってきたようだ。俺はゴーグルに積もった雪を指で落とした。
上善の滝までは割りと分かりやすい道順だった。道順といっても、実際にある道は雪で埋もれていて見えないのだが。
俺はエッジを利かせてゆるい斜面を上がっていった。
しかし……1億円とはこんなに重いものなのか。ゆうに10キロはありそうだ。
俺は途中何度もバッグを担ぐ肩を替えながら、なんとか10時前に上善の滝に着くことが出来た。
上がった息を整える。
さて、ここからどうすればいいのだろう。
10時にはあと5分ほどあるが……犯人がやってくるのだろうか。
さすがに、スキー客に扮装しているとはいえ、どこから犯人が見ている分からないから刑事たちは俺から大分離れた所にいた。
滝を見上げると、見事に凍っていた。
高さは3メートルあるかないかの小さな滝だ。水の落ちる角度も緩やかで、ちょっと足場を探せば素人でも登っていけそうだった。
もしかして、中谷さんもここに登ろうとしたのではないか……
そんなことを考えながら滝を見上げていると、凍った滝の中央に白いメモのようなものが張り付いているのに気が付いた。
雪が降って視界が悪い上、メモの上にも雪がかかっていて、うっかりしていたら見落とすところだった。
足場に気を付けながら滝によじ登りそれを手に取る。メモには、
『刑事をまいてここへ行け。自分の携帯電話は置いていけ』
と簡単な地図が書かれていた。
刑事がついてきていることはすでにバレているらしい。
ケータイを置いていかせるのは、刑事をまいたあと俺と警察が連絡を取れないようにするためか。
しかし、刑事をまくなんてことが出来るだろうか?
彼らは追跡のプロだ。
とりあえず俺は、ケータイを凍った滝壷に放り投げてから地図の場所に向かって移動し始めた。同時に後ろの方にいる刑事たちもついてくるのが分かった。
俺は一旦立ち止まると、向きを変えてゲレンデの方に向かった。刑事たちが慌てて木の陰に隠れる。
おいおい。そんなところにスキー客が隠れていたりしたら、余計に怪しいだろう。
俺は苦笑しながら刑事たちの前を通り過ぎた。
間を空けてまた刑事たちがついてくる。
吹雪いているというのに、ゲレンデではたくさんの人がスキーやスノーボードを楽しんでいた。
俺は刑事たちの様子を窺いながら素早く板を外すと、裏側に貼ってあった特殊なナイロンシールを剥がした。
はじめは戸惑った顔をしていた刑事たちも、俺が何をしようとしているのか察し、慌てて自分たちもしゃがみ込み板に貼られたシールを剥がしはじめた。
俺はそれを待たずにリフトに乗ると、上級者コースに向かった。
このスキー板には山スキーをやる際に使用する特殊なナイロンシールが貼られていた。これを貼っておくと逆滑りを防げるため、アップダウンの多い山スキーには必需品なのだ。滑走時には邪魔になるため剥がすことになる。
まずリフトに乗る段階で、大分刑事たちとは離れることが出来た。
でも、まだまくところまではいっていない。
俺は上から下まで一気に滑って行った。なるべく人込みを縫うようにして。
「―――おいッ!」
と、遠く後ろの方で怒鳴り声が聞こえたが、俺は構わずスピードを上げた。

そんなことを2度ほど続けると、周りに刑事の姿が見えなくなった。どうやらまけたらしい。
俺は先ほどの地図にあった場所へ急いだ。
距離的に上善の滝から5分ほどしか離れていないその場所に、紙袋が置いてあった。
中を見るとメモとケータイ電話が入っていた。
ケータイは受信しか出来ないようにされていた。着歴を見ると、30分ほど前から何回か連絡が入っていたようだ。もちろん非通知になっている。
メモには次の場所と思われる地図が書かれていた。
ここに行けということなのか?
移動を始めると、早速ケータイに着信があった。
「……もしもし?」
『やっと来たな』
機械を通しているらしく、やたら甲高い声が聞こえてきた。
『刑事はちゃんとまいたのか』
「多分」
俺がそう答えると、相手は微かに笑ったようだ。
『よし。この携帯と一緒に入っていた地図の場所に行け。15分後に連絡する』
それだけで通話は切れた。
地図の場所まで15分で行けるのかどうか定かではない。シールも剥がしてしまったし、大分ペースも落ちるだろう。
俺は急いで目的地に向かった。
次の場所まではずっと上り坂が続いており、体力的にかなり辛かった。
やっとの思いで着いた場所は、周りを林に囲まれた大きな岩のあるところだった。
その岩陰にスポーツバッグが置いてあった。色は白に近いグレーで半分雪に埋もれている。
まさか……と俺が思っていると、早速犯人から連絡が入った。
『着いたか』
「ああ」
『バッグが置いてあるだろう』
「グレーの?」
『そうだ。それに金を詰め替えろ』
やはり金を入れ替えるのか。
『1分でやれ。1分後に電話する』
俺は担いでいたスポーツバッグを雪の上に置くと、急いで中身を移し替えた。
このバッグは警察が用意したもので、生地の中に発信機が縫いこまれていた。追跡がしやすいように、色も目立つ赤だった。
刑事をまいて自分のケータイもなくなった今、この発信機だけが頼りだったが……それも手放すことになる。
こうなったら自分でなんとかするしかないな、と俺は腹をくくった。
着信音が鳴る。
『終わったか』
「ああ」
『そこに大きな岩があるだろう。それに向かって9時の方向に行け。1キロほど行ったところに目立つ杉の木が立ってる。そこに、はじめに入れてきたバッグを置いていけ』
「ちょ、ちょっと待て! もう一度言ってくれ!」
『命令をするのはこちらだ。勘違いするな。それから、同じことを2度は言わない。分かったな』
「……分かった」
『5分で行け』
通話は切れた。
岩に向かって9時の方向ということは……
俺はグレーのバッグと空になった赤いバッグを担いで目的地である杉の木に急いだ。
林の中にいるときは気付かなかったが、視界が開けてくると思ったよりも雪が強くなっているのが分かる。
1キロを5分だと? 
緩やかではあるが上りの傾斜がついている。10キロの荷物を持って雪道を移動するには厳しい時間だった。
俺は息も絶え絶えに目的の杉の木に着くと、バッグを放り出して雪の上に寝転がった。
心臓が爆発しそうな勢いで早鐘を打っている。
また着信音が鳴る。
無言で出ると、
『着いたか?』
「……あ、ああ」
俺が喘ぎながら返事をすると、相手は喜んだ声を出した。
『ふっ。よく時間内に来れたな。しかし、休んでいる暇はないぞ』
今度は一体どこに行かせるつもりなのか。
『そこにはじめのバッグを捨てて、今度は3時の方向に行け。4キロ行くと小さな鳥居がある。そこでまた連絡する。10分後だ』
「4キロを10分でなんて、無理だ!」
『今度は下りだ。行ける』
また通話は一方的に切れた。
膝はまだ震えていたがなんとか立ち上がり、金の入ったバッグを担ぐ。発信機入りのバッグはそこに放り投げたままにしておいた。
ますます吹雪いてきたが、俺は汗だくで走り回っていた。
禿げてはいるが、元は赤かったのだろうと思える小さな鳥居が見えた。
腕時計を確認する余裕もない。すぐにケータイが鳴った。
『着いたか』
息が上がって返事が出来ずにいると、
『次は……』
「……ま、待ってくれ。ちょっと休ませて、くれっ」
『命令はこちらがすると言ったろう』
それでも俺が息を切らしていると、
『安心しろ、次が最後だ。その鳥居の柱のどちらかに、グレーのリボンがつけてある。鳥居に対して平行に、リボンが付いている方向に移動しろ。 2キロ行くと小屋がある。その前で待っていろ。15分後だ』
俺はよろける足を動かして鳥居に近づくと、柱を見てまわった。
……あった。グレーのリボンだ。
その方向に移動する。
移動しながら、朦朧としそうになる頭で考えた。
刑事はまいたというのに、なぜ犯人はこんなに回りくどいことをするのか。
さっさと金を受け取った方がいいのではないか。
そんなことを考えていたら、建坪が5坪もなさそうな小さな山小屋が見えてきた。
窓から中を覗いたが、薄暗くてよく分からなかった。
俺は立っているのが辛くなり、バッグを傍らに置くと小屋の前に座り込んだ。
そろそろ連絡があってもおかしくない時間だが、一向にケータイは鳴らなかった。
……何か不手際でもあったか?
俺は自分の行動を省みる。
いや、ちゃんと指示通りにやってきたはずだ。
そのときだった。
小屋の裏手の方から、1人のスキーヤーが滑り降りてきた。
そして俺の前で派手に雪を舞い散らせながら減速すると、金の入ったバッグに手をかけた。
ゴーグルにマスクで顔はまったく分からなかったが、体格で男だと分かる。
「っ!? 待てっ!!」
俺は慌ててバッグを守ろうとした。
2人でバッグを取り合うように揉めていると、男がよろけて小屋にぶつかった。
その拍子にドアの前あたりにバッグが転げ落ちる。
「犯人なのか? 和歌子さんはどこだっ!」
俺がそう叫ぶのと同時に、何か小さな衝撃が走った。
なんだ? 今のは……
と思った次の瞬間、小屋の屋根の上に積もっていた雪が大量に滑り落ちてきた。
あっと思う間もなく、俺と男は雪に飲み込まれた。
立っていた場所が良かったのか俺は気を失うこともなく、なんとか自力で雪の中から這い出すことが出来た。
すると、男が先に雪の中から立ち上がるところだった。そして、雪の中からバッグを引きずり出すと、ひょいと担いでそのまま滑り下りていってしまった。
「ま、待て!!」
男を追いかけようと慌てて立ち上がったら激しい眩暈に襲われた。どうやら雪が落ちてきたときに頭をぶつけたらしい。
小屋にもたれかかるようにして眩暈が治まるのを待っていると、再びケータイが鳴った。
『ご苦労だったな』
「わ、和歌子さんはどこだっ!? 金は手に入ったんだから彼女を返せ!」
『そこの小屋にいる』
それだけ言うと通話は切れ、再びかかってくることはなかった。
スキー板は雪が落ちてきたときに弾みで外れていた。
俺はドアの前に走り寄ると取っ手を捻った。鍵がかかっているらしい。
古い小屋だったせいか、体当たりを何回か続けているうちに蝶番が壊れてドアが外れた。
「和歌子さんっ!」
俺は転がり込むように小屋の中に飛び込んだ。
……しかし、6畳ほどの小屋の中に人の姿はない。
小屋の中には達磨ストーブと石油が入ったポリタンクがあるだけだった。床の中央に、座るためなのか薄手の絨毯が敷かれていた。
犯人は、この小屋の中に和歌子さんがいる、と言ったが…… 一体どこにいるんだ? 隠れる場所もないぞ。
「和歌子さん……」
俺は小屋の中に立ち尽くした。
……ここに和歌子さんははいないのか?
犯人は嘘をついたのか?
俺は崩れ落ちるように膝をついた。
ちゃんと指示通りやったのに……どうして。
中谷さんと俺が入れ代わっていたのがばれ、それが問題だったのだろうか。
いや……やはり警察に知らせたことがまずかったのかもしれない。犯人は刑事の存在に気付いていた。
……それしか考えられない。
和歌子さんが誘拐されたのだと分かったとき、中谷さんは頑なに警察に知らせることを拒んでいた。
それを俺が…… 俺のせいで…………
「〜〜〜くそっ!」
ゴーグルを外し乱暴に床に叩きつけた。
どうすればいいんだ……
中谷さんと和歌子さんに、俺はどうやって償えばいいんだ……
絶望感で項垂れていると、どこからか物音が聞こえた気がした。
顔を上げ耳を澄ませる。
……たしかに聞こえる。
微かだが、呻くような人の声がたしかに聞こえる!
どこから聞こえるんだ!?
小屋の中に人が隠れられるようなスペースはない。
俺はハッとして絨毯をめくった。そこには床下収納と思われる蓋がついていた。
鍵などはかかっておらず、そのまま蓋を持ち上げた。
そこには手足を縛られ、口にガムテープを貼られた和歌子さんが窮屈そうに押し込められていた。
「和歌子さんっ!!」
俺は慌てて和歌子さんを引き上げた。意識はある。
床に座らせ手足のロープを解き、ガムテープを剥がした。
「―――かのう……くん?」
声がかすれている。
「はい。遅くなってすみません。もう大丈夫ですから」
と言い終わる前に、和歌子さんが俺に抱きついてきた。
「和歌子さん……」
寒さからか、それとも恐怖からか、和歌子さんの体は震えていた。

和歌子さんのケータイは電源が切られていただけで、ウェアの中に入っていた。それでホテルに連絡をし、時間を確認すると1時半を過ぎたところだった。
まだそんな時間だったのか。
随分と走り回らされたせいか、もっと経っていると思っていたが…
俺は着ていたジャケットを和歌子さんにかけると、達磨ストーブに火をつけ救助が来るのを待った。
「ありがとう、加納くん」
「いえ」
俺と和歌子さんは並んでストーブの前に座っていた。
「寒くないですか?」
和歌子さんはフフッと笑うと、
「こういうとき、映画なんかだと抱き合って暖を取ったりするのよね」
とストーブを見つめたまま言った。
「そんな冗談を言う元気があるなら、大丈夫みたいですね」
そう言って俺も笑った。それから、中谷さんが脅迫状を受け取って俺がここに来ることになるまでの経緯を話した。
和歌子さんは、
「早く……」
と呟いて膝の間に顔を埋めた。「……会いたい」
俺は和歌子さんの肩に手をかけると、
「会長もすごく心配していましたよ」
と言った。
途端に和歌子さんは泣き出した。
俺が中谷さんだったら抱きしめてやるところだが、それは俺の役目ではない。
和歌子さんはすぐに泣き止むと、ごめんね、と言って微笑んだ。
しばらくすると、ヘリのローター音が聞こえてきた。


俺たちを乗せたヘリは、ホテルの屋上にあるヘリポートに着陸した。
美紀や洋子たちが何人かの刑事やマネージャーの大石さんとともに屋上にやってきていた。
中谷さんは松葉杖をついている。
俺はローターが巻き起こす風に顔をしかめながら、みんなのところに駆け寄った。
和歌子さんはヘリに同乗して来た医師に付き添われ、毛布を被って降りてきた。
「高弥ぁっ!」
美紀が俺に飛びついてきた。
「大丈夫だったの? ……んッ!」
俺は美紀の頭を抱えるようにして何度もキスをした。
そしてやっと唇を離すと、
「だから大丈夫だって言ったろ」
と今度は力いっぱい抱きしめた。
また後ろの方で刑事たちの声が聞こえたが、無視した。
中谷さんの方を見ると、こちらも和歌子さんと抱き合っていた。ただし、
「ごめんね、ごめんね〜。僕が不甲斐ないばっかりに和歌子に怖い思いをさせちゃってぇ…… ぐすん」
「正臣、もう大丈夫だから泣かないで。ね、ほら、みんな見てるわよ?」
とどちらが助け出されたのか分からない。
村山警部が近づいてきて、
「ちょっとお話いいですかね」
と俺と美紀の顔を交互に見た。俺は肯きながら村山警部のあとについて行った。
ホテルの廊下を歩きながら、
「先ほど加納くんから連絡がきたときに教えてもらったスキーヤーなんだが……」
俺はさっきホテルに連絡を入れたとき、金が入ったバッグを持っていった男の特徴を知らせていた。
連絡を受けた刑事たちが、その男を麓で待ち構え身柄を拘束したらしい。
「たしかにキミが言ったとおりグレーのバッグを持っていたんだが、中身が入っていなかったんだ」
「え?」
「正確に言うと、タオルが入れてあってそれで膨らんでいただけなんだよ」
「そんな……どこか途中で隠したとか」
「いや、本人は小屋の前で奪ったバッグをそのまま持ってきただけだと言うんだ。ただのバイトだと」
村山警部は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「バイト?」
「ネットで見つけたと言ってるんだが……私はそういうことには疎くてよく分からんのだがね。自分が誘拐事件に荷担しているとは知らなかったと逆に驚いていたよ」
村山警部は、その男は嘘をついているようには見えない、とも言った。
「でも俺はたしかに金の入ったバッグを取られたんですよ? 目の前で!」
途中、バッグを替えるときも金を見ているし、あの重さは最後まで変わらなかった。
村山警部は、
「明朝、付近一体を捜索するつもりだ。男が嘘をついていて、やはりどこかに隠したという可能性もあるからな」
と言った。
そのあともしばらく事情聴取らしいことをされ、やっと解放されたのは夜の8時だった。
「大丈夫? 高弥」
部屋に戻ると、美紀が心配顔で待っていた。
「ご飯は? 食べた?」
「聴取中に、カレー……食った……」
それだけ言うと、俺はそのままの格好でベッドに倒れこんだ。
……ああ、疲れた。
とにかく眠りたい。
美紀が何か言っているのが聞こえたが、言葉として頭に入ってこなかった。
なんとなく頭をなでられているような気がしたが、それも夢だったのかもしれない……

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