君の名は

彼女を初めて見かけたのは通学に使う電車の中だった。
・・・・・・いや、この言い方は正しくないかもしれない。
僕も彼女も同じ高校なんだから、今までだって校内で見かけてはいたはずだ。
ただ、意識していなかっただけで。
だから正確に言うならば、冒頭部分を、
『彼女に初めて気付いたのは・・・』
に変えなければならない。

「あの・・・、よろしかったらここどうぞ」
朝のように満員ではないけれどそれでも空席はなく、つり革や手すりにつかまる人も少なくない・・・という、帰宅時の電車内だった。
高校の最寄り駅からは始発電車が出ることもあり、かなりの確率で座ることが出来る。
その日も僕と同じ制服を来た生徒が何人か座席に座っていた。 そして僕も。
でも、いくつも駅を過ぎないうちにあっという間に席は乗客で埋められていった。
そんな中、途中の駅から乳児を抱いた女性が乗ってきた。 手には小さいけれど荷物もある。
一瞬、譲ろうか・・・という考えが頭をよぎったが、僕はそのまま座っていた。
夕べ遅くまで参考書を広げていたせいで眠気もあった。
それに今日の午後は体育祭の練習で疲れたし。
これから道場にも行かなきゃならないし。
そんな言い訳を腹の中で並べていたら、目の前の席に座っていた人物がその乳児を抱いていた女性に席を譲った。
僕の制服と同じ制服を着た女の子・・・・・の隣に座っていた、セーラー服を着た中学生だ。
僕と同じ制服を着た女の子が驚いたように、でも微かにその中学生を振り返る。 そしてその直後に俯いた。
「え・・・でも・・・」
乳児を抱いた女性が笑顔で遠慮の仕草を見せる。
「いいから座ってください! 赤ちゃん抱いて大変だろうし・・・ 私なら平気ですから!」
地声なのか、それとも自分の行動に軽く酔っているのか・・・中学生の声は思いのほか大きかった。
車内の他の乗客も気付き、それとなく視線をそちらに向ける。
「じゃあ、ありがとう」
そう言ってその女性が譲られた席に座る。 代わりに席を立った中学生はその女性の前につり革につかまる形で立っていた。
「何ヶ月ですか?」
「もうすぐ7ヶ月なのよ」
「女の子ですか?」
「男の子なのよ、一応」
「えー! すっごく可愛いから女の子かと思った! お母さん似なのかな?」
「あら、嬉しい」
女性が微笑む。
・・・・・・その中学生の、一端の大人のようなやり取りになぜか嫌悪感を覚える。
と同時に、女性の隣に座っていた僕と同じ制服を着た女の子と目が合った。
彼女は気まずそうにすぐに目を伏せた。
その理由を僕は知っている。
中学生が女性に声をかける直前、実は彼女も席を譲ろうとしていたのだ。
それまで膝の上に広げていた教科書を慌しくしまって、腰を浮かしかけながら女性に笑顔を向けようとしたところで、
「あの、よろしかったらどうぞ」
と自分の隣に座っている中学生が先に譲ってしまったのだ。
自分より年下の中学生が。
それはいっそ鮮やかに。
大人のような会話も添えて。
しばらく居心地悪そうに座っていた彼女は、まだ走行中なのに席を立ちそのまま乗降口の方に移動してしまった。
その手すりにつかまって立つ彼女の後ろ姿に中学生がチラリと視線を向ける。そしてそのまま空いた席に腰を下ろした。
なんでそこで席を立つかな。
居心地悪いのは分からないでもないけれど、別に悪いことをしたわけじゃない。
というかそこで席を立つことが、余計に悪いことをした・・・という感じになるのに。
軽く腹さえ立った。
この腹立ちが、感じなくていい負い目を感じている彼女に対してのものなのか、勝ち誇ったように彼女の後に座った中学生に対してのものなのかよく分からなかった。
彼女は次にドアが開いた駅で降りていった。


数日後、僕はまた電車で彼女と乗り合わせた。
もしかしたら今までも結構乗り合わせていたのだろうか、僕たちは。 ・・・記憶にない。
過去に彼女の記憶が僕の中にないように、彼女もまた先日の居心地悪いときに僕と乗り合わせたことなんかは記憶にないようだった。
今度も彼女は座席に座っていた。 そして僕も。
いつものように駅に到着するたび乗客が乗り込んでくる。
そのうち荷物を抱えた初老と言ってよさそうな女性が乗り込んで来た。 前髪が紫だった。
彼女は慌ててカバンを抱えると、
「あ、あのっ、良かったらここどうぞっ!」
と飛び上がるように席を立った。 ・・・まるでこの前の汚名を返上するように。
が、紫の前髪は振り返らない。
「あの・・・ ここ・・・」
聞こえなかったのかと思い彼女がもう一度そう言ったら、ようやくその女性が振り返った。
「は? ・・・もしかして、あたしに言ってんの?」
「え・・・ はい・・・」
そう答えた彼女に向けた紫の顔が微かに歪んだ。
僕は軽く天を仰いだ。
この紫の前髪は自分が席を譲られるような歳だと思っていない。 眉間に寄ったしわが不機嫌さを表していた。
「要りません! 結構よ!」
はじめ笑顔だった彼女の顔が途端に戸惑いのそれに変わる。
「あ、でも・・・ 荷物もあるし・・・遠慮しないで下さい」
遠慮なんかするタイプか、この紫が。
「だからいいって言ってるでしょ!? しつこいわねっ!」
彼女の表情は完全に凍りついた。
「人を年寄り扱いしないで頂戴! それと偽善の押し付けも迷惑なのよ!」
紫はそう言い捨てるとプイと横を向いてしまった。
そのやり取りは車内にいるほとんどの乗客に聞こえていたみたいだ。 みんながチラチラと彼女たちの方に視線を向けている。
彼女は消え入りそうな声で、
「あの・・・ すみませんでした」
と紫に頭を下げた。 紫は聞こえているのかいないのか、彼女の声に何も反応しなかった。
彼女はまた元の座席に座ることはせず、いつかのときと同じように乗降口の方に移動してそこの手すりにつかまっていた。
紫はまだ微かに眉間にしわを残したまま、はじめと同じ格好で立っている。
他の立っている乗客もその空席に座ろうとはしなかった。
僕はそっと彼女の横顔を盗み見た。
その真っ赤になった顔は今にも泣き出しそうに見えた。
僕はまた腹が立った。
彼女の行為が偽善かどうかなんて、僕にだって分からない。
けれど少なくとも、他にも乗客がいる車内であんな風に大声で怒鳴りつけるような大人よりはマシだと思った。
彼女の行為には思いやりがあったかもしれないが、紫の行為には確実にそれはない。
また彼女は次にドアが開いた駅で降りていった。
この前とは駅が違っていた。


それから数日後、またまた僕は彼女と同じ車両に乗り合わせた。
今日は彼女は立っていた。 空席があるにもかかわらず、手すりにつかまり立っていた。
その表情が穏やかなのを確認して、僕は目を閉じた。
同じ高校なのは制服で分かるけれど、一体何年だろう。
大人っぽいというのにはかけ離れているし、もし制服が違っていたら中学生と間違えそうなくらいだから・・・きっと僕と同じ1年生だろう。
AからD組のどれかだ。
1学年はAからEの5クラスあって、僕は1年E組に所属している。
何組なのか全然見当が付かない。 E組は残りの4クラスとは階が違っていた。
今度何かの集会のときに分かるだろうか。 学年集会や全校集会はクラスごとに整列する。
・・・・・って、なんで僕はこんなことを気にしてるんだ。
軽く頭を振って目を開ける。 もう僕が降りる駅に近づいていた。
ふと乗降口の方に目を向けると、もう彼女の姿はなくなっていた。
一体どこで降りていったんだろう。 前回、前々回で彼女が降りていった駅は降りたくて降りた駅じゃないはずだ。
彼女がどこの駅で降りていったのか確認し損ねたことに、しまった、というような感情が微かに芽生えたのを感じて僕は動揺した。
なんでしまったとか思うんだ、僕は。 わけが分からない。


それから間もなくして、僕は彼女と言葉を交わすことになった。
「・・・・・・何してるの」
「え?」
言われた彼女が驚いた顔を僕に向けた。 彼女は僕の机に片手を突っ込んだ形で僕を見上げた。
「何って・・・ あの、数学の教科書・・・」
「ここ、僕の席だけど」
「え・・・ えぇっ!?」
彼女が慌てて机から手を引っ込める。「ご、ごめんなさい!」
僕はそのまま自席に着いた。 彼女はもじもじとしながら、
「あ、麻美・・・友達の席だと思って・・・ ホントにごめんなさい」
ともう一度詫びた。
E組は2日前に席替えをしている。
すぐに状況が分かった。
彼女は忘れた、もしくは貸していた数学の教科書を取りに友人のいるこのE組にやって来たのだ。
友人の姿が見えなかったからか、机の中からそのまま持っていこうとしたら、そこは友人の席ではなく僕の席に変わっていた。
「結衣!? 何やってんの?」
間もなく僕と同じE組の女子が彼女に声をかけた。
「あ、麻美〜っ!」
彼女が眉を下げて僕のクラスメイト・・・渡辺さんに駆け寄った。
「教科書は? 取った?」
渡辺さんが彼女の手が空なのに気付き、「早くしないと授業始まっちゃうじゃない!」
と机の中から数学の教科書を取り出す。
どうやら事前に話がしてあったらしい。
「席替えしたの?」
彼女が教科書を受け取りながら渡辺さんに声をかける。
「うん、一昨日。 ・・・あれ? 言ってなかったっけ?」
「聞いてないよ〜! 間違えて他の人の机探っちゃった」
そう言いながら彼女がちょっとだけ僕を振り返る。 僕は気付かないふりをした。
それから渡辺さんと二言三言言葉を交わして、彼女はE組を出て行った。
渡辺さんの友達だったのか。 やっぱり同じ1年だった。
チラリと斜め前に座る渡辺さんの方に視線を向けたら、偶然渡辺さんも僕の方を見ていた。
「・・・ごめん」
自分の友人が僕の机を探っていたことに謝ってきた。
「別に・・・ 何組?」
聞いてしまってから、なんでこんなこと聞いてんだ、と軽く後悔する。
渡辺さんは一瞬の間を空けた後、
「・・・C」
と短く答えた。
聞いておいて返事をしないのもあれだったから、軽く肯いてそのまま話を終わらせようとしたら渡辺さんは、
「C組の村上結衣」
と聞いていないことまで報告してきた。
「・・・あ、そう」
「なんでそんなこと聞いたの?」
「何?」
「クラスとか。 結衣の」
クラスとかって・・・クラスしか聞いてない。
軽い後悔が激しい後悔に変わってきた。 何気なく聞いた一言で、まさかこんな風に切り返されるとは。
「・・・もしかして興味あるとか?」
「僕が? 何に」
「別に」
渡辺さんはそう言うと、前に向き直った。 僕も次の授業のために机から教科書を取り出した。
・・・・・渡辺さんは苦手だ。
あまり長い会話はしたこともない。
けれど、その短い会話が僕の中にスルリと入り込んできて、妙な違和感を覚えさせる。
妙に居心地を悪くさせる。

C組の村上結衣。

渡辺さんが言った名前を胸の中で繰り返したら・・・余計に居心地が悪くなってきた。
なんなんだ僕は。
その名前を意識することで居心地が悪くなるのは意味が分からないし、不本意だった。
だから僕は、僕の中からその名前を追い出した。
彼女はただの同級生。 友達でもなんでもない。 ただ同じ沿線を利用しているだけの女の子。
だから名前なんか必要ない。 だから、彼女、で十分だ。
半ば意地になったように僕はそう思い込んだ。
思い込んでいないと怖かった。
一度でもその名を呼んでしまったら、あとからあとから溢れかえってきそうで怖かった。
―――こんな怖さを味わったことは、今まで一度だってなかった。


その怖さの正体が分かったのは、それから約1年後だった。 僕たちは2年になっていた。
それまでもときどき同じ車内に乗り合わせることはあったけれど、僕たちに会話はなかった。
いや、会話どころか目すら合わなかった。
そう・・・ 合わなかった。 決して合わせられなかったんじゃない。
2年になっても僕たちはクラスが別だった。
僕に違和感を覚えさせる渡辺さんともクラスが別になった。 正直ホッとした。
けれど、ホッとしたのも束の間、僕はまた胸の中に違和感を覚え始めた。
彼女と電車が一緒になることが極端に減ってきたからだ。
いや、減ってきたそのことに違和感を覚えたのではなく、気付くと車内に彼女の姿を探してしまっている自分にだ。
しかも、乗り合わせていないと分かったときに微かに落ち込む自分がいて、更に居心地が悪くなる。
本当に意味が分からない。 どうしたっていうんだ、僕は。
そんなある日、どうして彼女が最近僕と同じ電車に乗っていないのかが分かった。
彼女はバスケ部の練習が終わるのを待つようになっていた。
・・・・・彼女がバスケ部の3年生と付き合い始めたからだ。
それを知ったときの衝撃といったらなかった。
もう違和感とか居心地の悪さといった比じゃなかった。
なんなんだ、この感情は。
帰りがけに体育館の横を通ったとき。偶然彼女とバスケ部の3年生が体育館外にある水道のところにいるのを見かけた。
二人はじゃれあっていた。
その3年生が笑いながら冷えたペットボトルを彼女の首筋にくっつけようとして、彼女がそれから逃げようとする。
本気で逃げる彼女の腕を捕まえて目的を果たす3年。 それに高い声で応える彼女。
何やってんだ、お前ら。
怒りにも似た黒いものが、腹の底に溜まっていくのを感じた。
彼女が怒って3年の手からペットボトルを取り上げた。 それでもまだ3年は笑っている。
その3年が彼女の肩に両手をかける。
それまで怒ったようにしていた彼女の顔が一瞬固まり、次の瞬間さっと朱色に変わった。
バスケ部で背の高い3年は腰をかがめるようにして彼女に顔を近づけた。
赤くなった彼女の顔と、少しだけ傾けた3年の顔が重なる前に、僕はその場を走り去った。
校門を出て大分立ったところでやっと足を緩める。
走ったからだけじゃない動悸が僕を襲っていた。 眩暈や吐き気も先を競うように追いかけてきた。
そんな自分に激しく動揺する。
なんでこんなことになっているんだ、僕は。
何より一番動揺したのは、彼女に触れた3年に激しい殺意を覚えたからだった。
こんな感情知らない。
今までの僕の人生の中で必要のない感情だった。 ・・・・・・嫉妬とか。
1年前に感じた怖さがやっと分かった。

こんなにも黒い感情でいっぱいになるのか。
逃げ出したくても、もう自分ではどうしようもない感情に飲み込まれてしまうのか。
明らかに一方的で、なんの見返りもないって分かっているのに想うことが止められない・・・
―――人を好きになるというのはそういうことなのか。

そう。 僕はやっと気が付いた。

僕は彼女のことが好きになっていたのだ。

名前も呼べない、君のことを・・・・・




君の

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