Cube!   第5話  シーソーゲーム(SIDE高弥)

「加納っ! 大丈夫かっ!?」
マットの横で記録を取っていた顧問の教師が走り寄ってきた。
「大丈夫です――― っつ!」
そのまま立ち上がろうとしたら右足に痛みが走った。見てみると膝から血が出ている。
「派手に擦りむいたみたいだな。医務室行ってこい」
教師はファイルを持ったまま、「オレは続きの記録取らなきゃならんから、1人で行けるな?」
と言った。
「はい」
俺の返事に教師は肯くと、次、と言いながら落ちたポールを直した。
俺が右足を庇いながら歩き出すと、
「加納、コレ着ていけよ」
と佐藤がジャージを投げて寄こした。俺は陸上部のユニフォームのタンクトップ姿だった。
「サンキュ」
それを羽織り校舎に向かって歩き出す。
……ついてないな。
今日こそ170飛べると思ったんだけどな。
俺の名前は加納高弥。私立青葉学園中等部の3年だ。
今日は市内の陸上記録会で、第一中学にやってきていた。
俺は本当は陸上部員ではないが、ウチの陸上部でハイジャンをやっている者がほとんどいないため、こういった学外の記録会などに助っ人としてよく呼ばれていた。
小学校でバスケをやっていたせいか、ジャンプ力だけは人並み以上にあったのを陸上部の顧問に目を付けられたからだ。
はじめは入部を勧められたが、俺は生徒会役員をやっていたからそれは丁重に断った。
部員ではないといっても、やはり良い記録を残したいという気持ちはある。
特に今回は中学最後の記録会だったから、どうしても表彰台に上りたかったのだが……
やはりいつもと違う場所だったからだろうか。
俺は踏み切りのときにバランスを崩してしまい、飛ぶには飛んだが踵をポールに引っ掛けて落とし、さらには着地にも失敗してマットから転げ落ち、右足を派手に擦りむいた。
―――記録は167だった。
これじゃ表彰台どころか、入賞も難しいかもしれないな。
俺は情けない気持ちで医務室に向かった。

「あれ?」
俺は靴を脱いで校舎内に入り医務室を探した。
ところが医務室がどこなのか顧問に聞いてくるのを忘れてしまった。
今日は日曜日で校舎内は閑散としていた。誰かに聞こうにも人の気配がない。
とりあえず傷口だけでも洗っておくか。
俺はテキトーに歩き回って水道を探すことにした。
この第一中学は公立の中学で、俺の中学とはちょっと違う雰囲気を醸し出していた。
なんか古臭いというか、ノスタルジックというか。
夏の終わりのヒグラシの鳴き声が、余計にそう感じさせるのかもしれない。
そんなことを考えながら廊下を歩いていくと、目の前の教室から人が出てきた。
俺が靴下で歩いていたせいで足音がしなかったためか、その人物はまさか廊下に人がいるとは思っていなかったようだ。
「きゃっ」
と小さく悲鳴をあげてその女の子は身をすくめた。
俺は思わず、
「あ、すみません」
と謝った。
謝りながら、俺悪くねーよな? と考える。
「いえ、こちらこそごめんなさい! ……あれ?」
女の子は俺の姿を眺めて少し首をかしげた。「一中の人……じゃ、ないですよね?」
「ああ。今日、陸上記録会があって……」
と俺が説明しようとしたら、女の子は俺の膝を見て、
「ちょっと! 血が出てますよっ!?」 
と慌てた。「大丈夫ですかっ?」
「あ――… それで医務室探してたんだけど、どこだか……」
分からなくて、と言おうとしたら、
「早く、こっちです!」
と女の子は俺の前に立って足早に歩き出した。
どうやら医務室に案内してくれるらしい。
それはいいのだが、なんて早さだ。
こっちは足が痛くてそんなスピードにはついていけないぞ?
と思っていたら、女の子が振り向いた。
「あの、肩貸しますか?」
俺は苦笑しながら、
「いや、自分で歩けるから。それよりもっとゆっくり歩いてくれる?」
「あっ! そうですよね、ごめんなさい!」
女の子はちょっとだけ顔を赤くすると、俺と並んで歩き出した。
かなり慌て者みたいだ。
俺は歩きながら横目で女の子を観察した。
小柄な子だなぁ。150そこそこしかなさそうだ。
パーマがかかってるのかそれともクセなのか、肩まで伸びた栗色の髪の先がちょっとだけカールしていた。
医務室は意外と近くにあった。
「ここなんですけど」
と言いながら女の子が医務室のドアを開ける。「失礼しまーす」
医務室特有の消毒液の匂いがする。入り口近くに机や棚があり、医療品と思われる物が所狭しと並んでいた。
奥の窓際にベッドが3つ並んでいた。
ついでだから、昼寝でもしていきたい気分だった。
どうせ俺は閉会式まで待機しているだけなのだから。
そんなことを考えていると、
「どうしよう。医務室の先生いないみたいなんですよ」
と女の子が医務室の奥を覗いて言った。そして外の廊下も見回し、
「やっぱりいない」
と不安そうに呟く。
「あ、いいよいいよ。テキトーにやるから」
俺がそう言うと、
「テキトーって……」
女の子はちょっと眉間にしわを寄せ、「じゃ、あたしやってあげます」
と救急箱を取り出した。
「え? いいよ、ホントに。自分でやるから」
「心配しないで下さい。こう見えてもあたし保健委員ですから!」
女の子は少し胸を反らして自慢気に言った。
その言い方がなんだかおかしくて、俺はちょっと笑いながら、
「じゃ、お願いしようかな」
と近くにあった丸椅子に腰掛けた。
女の子は手際よく脱脂綿に消毒液を含ませそれを傷口に当てた。瞬間痛みが走る。
「しみます?」
女の子は手の動きを止めずに、視線だけ寄こして聞いてきた。
「いや、大丈夫」
女の子は口元に笑みを浮かべると、さっさと消毒を済ませ患部にガーゼを当て包帯を巻き始めた。
「……なんか大袈裟だな」
「バンドエイドでもいいんですけど、傷口が大きいんで」
女の子は俺の足元に膝まずいた状態で処置してくれていた。
包帯を巻くとき、女の子がちょっとだけ俺に近づいた。
そのとき、セーラー服の衿から胸元が見えた。
俺は慌てて目をそらした。そして、動揺を悟られないように、
「日曜日だっていうのに、何しに学校に来てたの?」
と女の子に話し掛けた。
「あたしダンス部なんです」
「うん?」
「今日は後輩が追い出しコンパやってくれて。って言っても、食事したりするんじゃなくてダンスを披露してくれたんですけど。……はい、出来ましたよ!」
と女の子が顔を上げた。
全体的に小作りな顔に、くりっとした目が印象的な子だった。グロスでも塗っているのか、唇がつやつやしていた。
「……ありがとう」
「いえ」
女の子は笑顔でそう答えると、救急箱を片付け始めた。
俺は、なんだかこのままこの子と別れてしまうのがイヤで、なにか話題を探そうとしていた。
そのとき、
「美紀〜?」
と廊下から男の声がした。「どこだよ? 美紀〜?」
すると目の前の女の子が、
「健二? ここよ、医務室!!」
と廊下に向かって大きな声を出した。
健二と呼ばれた男が医務室に入ってきた。
「……何やってんだ?」
男が訝しげに俺を眺めながら医務室に入ってくる。
「この人、陸上記録会に来てて怪我しちゃったんだって」
女の子が俺の方を振り返った。「えーと……佐藤さん、でいいんですよね?」
「え?」
女の子はノートに何か書き込みながら言った。多分、医務室を利用したものが記録しておくノートなのだろう。
……佐藤? 誰が?
女の子はフフッと笑うと、
「なんで知ってるのかって顔してますよ?」
と得意気に言った。俺が何も答えられずにいると、
「ほら、そこ!」
と言って俺のジャージの胸を指差した。名前が縫い付けてある。
……さっき、佐藤に借りたジャージだった。
俺はおかしくなって吹き出してしまった。
「あれ? なんか変なこと言いました?」
「いや別に。何も」
と言いつつ俺がまだ笑っていると、
「おい、美紀。終わったんなら帰ろうぜ」
と男が不機嫌そうな声を出した。
「あ、ゴメン。今行く」
女の子は医務室を出て行こうとして俺を振り返り、「あの、じゃ、お大事に」
ペコリと頭を下げた。
「あ、どうも……」
と俺が言い終わらないうちに、女の子は男の後を追って足早に出て行ってしまった。
……彼氏かな。
多分そうだろう。かわいかったもんな。
美紀って呼ばれてたな。
美紀、か―――
俺は口の中でその名前を呟いてみた。


俺の通っている中学は、よほど成績が悪くなければエスカレーター式に高等部に上がれることになっている。
だから俺は、一般的な受験地獄を味わわずに中3の3学期を過ごしていた。
それもあと1ヶ月で終わりという頃、俺はバレンタインデーにチョコレートをもらった。
「はい、高弥。チョコあげる」
一緒に生徒会役員をやっている洋子からだった。
「あ…… ありがとう」
この時期、本当に女は大変だと思う。
本命チョコだけならいいだろうが、こうした義理チョコまで用意していたらきりがないのではないか。
「洋子は律儀だなぁ」
と俺が感心していると、洋子はちょっと怒ったような顔をして、
「……もしかして、義理だと思ってる?」
「え?」
なんか怒らすようなこと言ったか? 俺。
洋子はフッと息を吐き出すと、
「お返しは3倍返しだからね」
と指を3本立てた。
それが目当てかよっ!?
俺は苦笑しながらもらった包みを開けチョコを口に入れた。
最近のチョコは義理用でもこんなにおいしいのか……
そんなことを考えながらチョコを食べていると、
「……ねぇ。高弥って今まで好きになった女の子とかいないの?」
と聞かれた。
「は? なんだよ、急に」
「いや……クラスに高弥のファンだっていう子がいて……聞かれたから」
「ホントかよ? 誰だよ?」
「誰でもいいでしょっ!」
洋子はちょっと慌てたようにそう言うと、「それよりいるの? いないの? どっちなのよ?」
と俺に詰め寄った。
俺は天井を見上げてちょっと考えてから、
「ん〜…… いない……か?」
と答えた。洋子は大きな溜息をつくと、
「寂しい青春を送ってんのね」
「うるせぇっ!」
俺は洋子を殴るふりをしながら、あの女の子のことを思い出していた。
去年の9月に陸上記録会であった女の子のことだ。
たしか、美紀とかいう……
ちょっとかわいかったよな。 いや、かなり……
慌て者というか、オッチョコチョイっぽそうなところがツボだよな。
と同時に、一瞬見えた彼女の胸元が鮮明に脳裏によみがえった。
ほんの一瞬しか見ていないのに、結構覚えてるもんなんだな……
「……ちょっと高弥? あんたなにニヤニヤしてんのよ?」
「いやっ、別に……」
洋子に指摘され慌てて顔を引き締める。
きっと、もう会うこともないんだろうな。
いや、会ったって無駄か。男いたもんな。
このときはそんなことを考えていたのだが、後日、俺は意外なところで美紀を見かけることになるのだった。


「高弥。悪いんだけど、由加のこと迎えに行ってきてくれない?」
中等部の卒業式も終わった春休み。
特に何の予定もなくゴロゴロして過ごしていたら母親が声をかけてきた。
「さっき電話があったの忘れてたんだけど、今日練習遅くなるんだって。夕方になると危ないし、雨降りそうだからカサ持って来てって」
妹の由加は小学校3年生だ。2つ隣り駅の朝日ヶ丘でバレエを習っている。
「今?」
「今から行くとちょうどいい時間だと思うけど」
仕方なく由加のピンクのカサを持って家を出た。
外に出ると、今にも降り出しそうな雲が立ち込めていた。
俺は足早に駅に向かうと、滑り込んできた電車に飛び乗った。
朝日ヶ丘の駅に着くと、ますます空は薄暗くなってきていた。
夕方だからなのか、雨雲のせいなのか。
こりゃ、さっさと迎えに行って帰った方が良さそうだな。
俺は小走りに公園の中を突っ切ろうとした。そのとき、
「ゴメン、美紀!」
とすぐ近くから声が聞こえた。
……なんだ?
俺はちょっと歩を緩めると、辺りを見回した。
「傷つけるつもりはなかったんだ!」
俺は築山の裏側にいたのだが、どうもその向こう側から聞こえてきたみたいだ。
「許して、美紀! 健ちゃんだけが悪いんじゃないのっ!」
なんか、揉めてんのか?
少し気になり、こっそりと声の方に足を向け様子を窺った。
女の子が1人立っている。
そしてその前に男が膝まずいていて、その男に寄り添うようにもう1人女の子がしゃがみ込んでいた。
「健二……みちるとあたしと二股かけてたの?」
「いやっ、そんなつもりじゃ……」
……おいおい、修羅場かよ。
どうやら、男の方が二股をかけていたらしい。
俺はさっさと由加を迎えに行こうと踵を返しかけた。
そのときなに気なく、立っている方の女の子の顔を見て驚いた。
去年の9月、陸上記録会で会った女の子だった!
あのときと同じ、栗色の髪が揺れている。
風で揺れたのか、それとも彼女自身が震えているのか……
しばらく揉めた後、男とそれに寄り添っていた女の子は公園を出て行ってしまった。
あの女の子(たしか美紀という名前だった)は2人が消えた後、近くにあったブランコに腰掛けると、声を押し殺して泣きはじめた。
俺は駆け寄って抱きしめたい衝動に駆られた。
が、向こうは俺のことなど覚えてはいないだろう。一歩間違えたら、犯罪者扱いされてしまう。
どうしたものか……
そんなことを考えている間に、とうとう雨が降り出した。
それでも彼女はまだ泣き続けている。
俺は思い切ってブランコに近づいた。……が、彼女は全く気が付かない。
俺は持っていた由加のカサをブランコの柵に立てかけると、そっとその場を離れた。
気が付いてくれればいいが……
俺はちょっと振り返りながら公園を後にした。

「お兄ちゃん、何しに来たの?」
「いや……」
由加が腰に手を当てて俺を見上げている。俺は前髪から雫をたらしていた。
「由加のこと迎えに来たんじゃないの?」
「そうだよ」
「じゃ、なんでカサさして来ないのよ!? びしょ濡れじゃない! 由加のカサは?」
俺はウチを出るとき、由加のカサだけ持って出て自分の分を持っていないことに気付かなかった。
由加のカサは……
「……ゴメン、電車に忘れてきた」
「ええ――ッ! あのカサお気に入りだったんだよ!! もう、お兄ちゃんのバカっ!」
仕方がないから、すぐ隣りのコンビニでビニール傘を2本買った。
俺は、まだブツブツ言っている由加に、ゴメンゴメンと謝りながら駅に向かった。
途中公園を通ったとき、ブランコの方を見てみると、もう彼女の姿はなかった。
柵に立てかけておいた由加のカサもなくなっている。
俺はフッと息を漏らすと、
「由加。今度好きなカサ買ってやるからな」
と言った。

短い春休みが終わり、俺は4月から高等部に進学した。
半分ぐらいは中等部からの持ち上がりだから、俺にとっては高校生になったというより、クラス替えをしたような感覚なのだが。
だから俺は、高校生になったときの不安や期待のようなものは、特に抱いていなかったのだ。
教室に入るまでは……


「ねぇ、コレ!」
前の席からプリントが回されてきた。
俺はハッとして顔を上げた。彼女……美紀が怪訝そうな顔をしている。
俺は美紀からプリントを受け取ると、自分の分を1枚取り残りを後ろに回した。
……ウソだろ?
俺はプリントに目を落としたまま心の中で呟いた。
なんで同じ高校にいるんだよ?
しかも同じクラスで、目の前の席かよ!?
美紀はプリントを俺に渡したあと、少しだけこちらを見ていたようだが、すぐに前を向いてしまった。
俺は気付かれないようにそっと息を吐き出した。
入学式からすでに1週間経つが、俺は毎日こんな調子だった。
俺は美紀のことを覚えているが、向こうはとっくに忘れているみたいだった。
いや、忘れる前に記憶にも残っていなさそうだ。
だから普通にしていればいいものを余計に意識してしまって、俺はやたら素っ気ない態度ばかり取らざるを得なかった。
本当は、
「記録会のときはありがとう」
とか、
「俺、本当は佐藤じゃなくて加納っていうんだ」
とかいろいろ話したいことがあるのに、挨拶すらろくに出来ないでいた。
そんな中、クラス親睦のためのバーベキュー大会が開かれた。

俺はなんだか面白くなかった。
席順でバーベキューの班が決まったときは、これで美紀と話す機会が出来たと喜んだのだが、とてもそんな余裕はなさそうだった。
美紀の周りにいつも男がいるからだ。
「彼氏募集中でーす」
とか言ってんじゃねーよ!
美紀ちゃんとか呼ばせてんじゃねーよ!!
俺は話の輪に入らずに、1人ふてくされてウーロン茶を飲んでいた。
「ねぇ、ところで今まで何人と付き合った?」
と同じ班の鈴木が美紀に聞いた。
美紀は同じ班の男どもに質問攻めにされていた。
……どうせ、健二って男1人だろ。
俺がそう思っていると、
「ふふ。ご想像にお任せします」
と美紀は首をかしげた。うわ〜と男どもが騒ぐ。
さらに佐伯が興奮気味に、
「じゃあさっ、もう経験あるわけ?」
と聞いた。
おいっ! 何てこと聞いてんだよ!?
俺はウーロン茶でむせそうになりながら、美紀の方をチラッと窺った。
「それもご想像にお任せするわ」
途端に男どもが色めき立った。
……想像に任せる?
こいつらの想像に任せてたらどーなると思ってんだよ!? 頭ん中じゃ、お前もう裸にされてるぞ!?
大体お前そんなキャラだっけ? なんか無理して作ってねーか?
美紀はまだ男どもに質問攻めにされていた。
年上と付き合ったことはあるか、とか、逆に年下はどうだ、とか。
美紀はそれらの質問に思わせぶりな答えを返していた。
そんなふうにしてたら、誘ってると思われるぞ?
俺の心配どおり、バーベキュー以降美紀のことを狙う男が出始めた。
とくに美紀の隣りの席の太田。こいつは何かと理由をつけては美紀に近づいていた。
「美紀、現国の教科書忘れたから一緒に見せて」
と机をくっつけて、美紀の体にに太田が体を寄せた時には殺意すら覚えた。
気が付くと俺は、後ろから美紀の椅子を思い切り蹴飛ばしていた。
美紀が驚いて振り返る。
やべ、なんて言おう……
「……こ、黒板が見えねーんだけど」
俺の苦しい言い訳を美紀は何の疑問も持たずに信じたようだ。ごめんね、と言って太田から少し体を離してくれた。
安堵の溜息をついていると太田がちょっとだけ振り返って俺を睨み、チッと舌打ちした。
俺が睨み返してやると、太田はフンといった感じで顔を背けた。
俺も教科書に目を落としたが、内容が全然頭に入ってこなかった。
これが嫉妬か? と思うと、なんだか落ち込んできた……

「あの、あたしC組のサカモトです。入学してからずっと加納くんのことが気になってて……」
と女の子が俯いた。「よかったら付き合ってくれませんか?」
ある日の放課後。俺は体育館裏に呼び出された。
こんなことは久しぶりだった。
中等部に入学したばかりの頃、何回か同じシチュエーションになったことがあるが、2年にあがると間もなくそんなことはほとんどなくなっていた。
ナニ組のダレソレと言われても、はっきり言って初めて見る顔だ。多分、他の中学から入ってきた子なんだろう。
俺は正直に、
「ごめん、俺キミのことよく知らないから……」
と言うしかなかった。「悪いけど、付き合えない」
この瞬間が1番苦手だ。
大体の子はこれで黙って去っていくが、1度大泣きされたことがある。
泣かれるくらいならまだ罵倒された方がましだ。
そんな俺の心配をよそにC組のナントカは、そうですか、と小さく呟くと踵を返して走り去って行った。
俺が溜息をつきながらそれを見送っていると、ちょっと離れた所にある水道の陰から上靴が見えた。
俺と同じ学年色のグリーンの上靴だ。
……誰かいるのか?
足音を忍ばせて近づき、上から覗き込む。
―――美紀だった。
「……おい」
俺が上から声をかけると、美紀は驚いて振り返った。
「……何やってんの? お前」
美紀も驚いているようだったが、正直俺もかなり驚いていた。
なんでこんなところにいるんだよ。
まさか、今の見てたのか……?
美紀はスカートを払いながら立ち上がると、
「別に! 何もしてないわよっ」
とそっぽを向いた。
まるで俺なんか眼中にないって感じだ。
そうだよな。
俺が誰に告白されようが、興味ないよな。
俺は自嘲気味に笑いをもらすと、そのまま教室に戻ろうとした。
すると美紀が怒ったように、
「意外とモテるのねっ」
と言った。
は? モテる? 誰が?
それ言うなら、お前だろっ!?
お前の方が男寄りついてんじゃねえか!
「お前ほどじゃねーよ」
と俺は美紀を振り返った。「今まで何人とも付き合ってきたんだろ?」
俺はバーベキューのときの話を思い出しながら言った。すると美紀は、
「まあね」
……って、否定しろよっ!
お前本当は、健二って男以外とは付き合ったことないだろ?
そんな遊んでるような感じしなかったぞ?
俺は何か言ってやろうと考えていたのだが、どれも上手く言えない気がして、結局黙っていた。
そのとき、美紀の背後に学ランを着た男が立っているのに気が付いた。
こいつ……健二だ。
美紀も突然の健二の登場に驚いていた。
「ちょっと! こんな所で何してるのよ?」
「お前に会いに来たに決まってんだろ。ケー番も替えちまうし連絡つかないから、高校来るしかなかったんだよ」
と健二が情けない声を出した。
今さら何を言ってるんだ、この男は!
お前、彼女傷つけて振ったんじゃねーのか!?
「……あたしたち、別れたんだよね」
「オレやっぱお前じゃないとダメだよ。みちるとはもう会わないから! な、やり直そうぜ」
調子いいこと言ってんじゃねーよ!
誰がそんなこと信じられるかっ!
俺は腹の中で健二に毒づいていた。
「そんな……今さらそんなこと言われたって困るわよ。だって健二はもうみちると……」
美紀は口に手を当て逡巡する仕草を見せた。
おいっ! 迷ってんじゃねーぞ?
そんな浮気した男の言うこと信じてんじゃねーよ!!
俺が眉間にしわを寄せながら2人のやりとりを聞いていると、ふいに健二が俺の方を見た。
つい感情が顔に出て、俺は健二を睨んでしまった。
「……こいつ、誰?」
健二が目線は俺に向けたまま、美紀に聞いた。
美紀はそれまで俺がいたことなどすっかり忘れていたようだ。驚いて俺を振り返り、
「だ、誰でもないわよっ! ただのクラスメイトよ!!」
と言うと、ぐいぐいと健二の背中を押して校門の方に行ってしまった。
俺は1人体育館裏に取り残された。
まさか、ヨリを戻すとか言い出すんじゃないだろうな?
そんなことは絶対に避けたかったが、俺にどうにかする手段があるわけでもない。
俺は溜息をつきながら校舎へ戻った。

そんなある日の学校帰り、俺は偶然健二と同じ電車に乗り合わせた。
向こうは友達と一緒で、俺には全く気付いていなかった。
ちょっと離れた位置にいたのだが、俺のところまで健二たちの会話が聞こえてきた。
「あれ? 健二、今日みちるは?」
友達が健二に話し掛ける。
みちるって……たしか二股かけてた相手だよな?
そんなことを考えていると健二は、
「ああ、今日は友達と買い物に行った」
となんでもないことのように言った。
「お前ら中学ん時から付き合ってんだろ」
「まあな」
まあな、って……
おい。お前この前来たとき、もうみちるとは会わないって言ってなかったか?

俺は眉間にしわを寄せて、健二の話を聞いていた。すると健二が、
「でも最近、元カノとヨリ戻そうかと思ってんだよな」
ととんでもないことを言い出した。
―――なにっ?
「みちるどーすんだよ?」
と友達が聞くと、
「それは、まぁ……」
と歯切れの悪い返事をしている。
「二股か」
友達が笑いながら言った。健二も苦笑しながら、
「ってか、元カノがヤラせてくんねーんだよ。だから……」
「セフレ?」
健二は否定も肯定もしないで笑っていた。
「よっぽどいい女なんだ? 元カノ」
「顔はまあまあだけどな。すげースタイルいいんだよ」
それを聞いた友達が、
「超巨乳とか?」
とニヤニヤする。
「いや。オレ手の平サイズが好みだから」
と健二も笑っていた。
俺はこいつらをぶっ飛ばしてやりたい衝動に駆られたが、幸か不幸か健二たちは次の駅で降りていってしまった。
俺はゆっくり深呼吸すると、目をつむって天井を仰いだ。
怒りが完全に収まるまでかなり時間がかかった。
―――美紀がまた傷つくようなことにならなければいいのだが……

「……って高弥、あたしの話聞いてる?」
洋子がいきなり俺の背中を叩いた。
「え?」
ある日の放課後、俺は廊下でばったり洋子に会った。
高等部は1学年12クラスあり、俺はA組、洋子はJ組で階も違うから滅多に会うことはなかったのだが、たまに会うと洋子はいろいろ話し掛けてくることが多かった。
俺はそれを上の空で聞いていたらしい。
なんだか最近いろいろ考えることが多くて……って大体は美紀のことなのだが。
あれから美紀と健二は連絡を取っているのだろうか、とか。
隣りの席の太田にちょっかいを出されていないか、とか。
太田は相変わらず教科書をわざと(と俺は思っている)忘れて、美紀の体に触れようとしている。そのたびに俺は後ろから椅子を蹴飛ばしていた。
美紀は太田の下心には全く気付いていないようだが……
「もう、やっぱり聞いてない!」
「悪い。なんだっけ?」
だからぁ、と洋子は言った。
「生徒会の話よ! 今日中谷さんにたまたま会ったんだけど、また一緒にやろうみたいなこと言われたって言ったの!」
洋子は、高弥はどうするの、と言いながら俺と一緒にA組の階に下りてきた。
お前のクラスはあっちだろう、と言いかけたとき、廊下の反対側から美紀が歩いてきた。
美紀は俺たちに気付き、ちょっと足を止めた。そして俺と洋子の顔を交互に見比べている。
洋子はそのままA組まで一緒に入ってくると、
「高弥、一緒に帰らない?」
と誘ってきた。
「いや……」
俺がテキトーに洋子をあしらっている間、美紀は黙々と帰り支度をしていた。
……もしかして、彼女とか思われてないか?
くそ……
この前の体育館裏のときといい、今日といい、なんでこんなとこばっか見られるんだよ。
洋子には用事があるからと言い、先に帰ってもらった。
教室には俺と美紀の2人だけだった。
美紀はどうやら保健室に用事があって残っていたようだ。
「ねぇ、今の彼女?」
と美紀が聞いてきた。
やっぱりそう思われていたか。
「いや、違う」
俺は即座に否定した。
美紀が、別にテレなくてもいいのに、と信じていないようなことを言うから、
「本当に違うんだよ!」
ともう1度否定した。
美紀は、ふうん、と興味なさそうに呟くとそのままカバンを肩にかけて教室を出て行こうとした。
俺は思い切って美紀に声を掛けた。
「み……っ 桜井んち、どこ?」
一瞬、美紀、と呼びそうになって、慌てて言い直した。
「朝日ヶ丘だけど?」
と美紀が立ち止まる。
……知ってる。
「俺、今日そっちに用事あるから……一緒に帰らないか?」
「いいけど……」
俺は美紀と一緒に学校を出た。
しかし、せっかく一緒に帰ることになったというのに、結局何も話せないまま朝日ヶ丘まで来てしまった。
何やってんだかな、俺は……
誘っておきながら何も話さない俺に、美紀は訝しげな顔を向けて、
「ねぇ。ところで加納くん、どこ行くの?」
と聞いてきた。
俺は一瞬言葉に詰まってから、
「……どこも」
と正直に答えた。「実は…… お前に話があってウソついた。本当は用事なんかない」
俺のセリフに、え、と美紀が首をかしげる。
話がある……とは言ったものの、何から話していいのか分からず、俺は足元に視線を落としたまま黙っていた。
俺があんまり黙っていたせいで美紀はじれったくなったようだ。
「なによ、話って?」
と美紀が俺の顔を覗き込んだ。
その瞬間、初めて会ったあの医務室で手当てしてもらった時のことを思い出した。
あの時もこれぐらいの距離で俺は美紀を見下ろしていた。
そして、セーラー服の衿から見えた美紀の……と思い出したとき、同時に健二や太田の顔が浮かんできた。
「お、お前さ、もうちょっと自分大切にしろよ!」
気が付くと俺はそんなことを口走っていた。
「スキ見せすぎっつーか、誘ってんのかと思われるぞ?」
「え?」
美紀が怪訝そうな顔で俺を見つめる。
「隣りの席の太田! あいつ絶対下心あるぜ。そんな事も分かんねーのかよ! それからこの前学校に来てた男。あいつにだって騙されてるぞ、お前!」
俺は一気にまくし立てた。
美紀はあっけに取られたように俺の顔を見ていたが、急に顔を赤くすると、
「加納くんには関係ないでしょ!? あたしが誰と何しようが!」
とプイッとそっぽを向いた。
俺は引っ込みがつかなくなり、
「年上とも付き合ってたとか言ってたけどっ」
とさらに話を続けた。
「え? なによ?」
「なによ、じゃねーよ! バーベキューんとき、お前佐伯たちに話してたじゃねーか!」
美紀ははじめなんのことか分からないような顔をした。が、俺は構わず続けた。
「あれだってあの場のノリとか勢いだけで言っただけなんじゃねーのか? お前男慣れしてなさそーだしっ」
「な、なに言ってんのよ! ウソじゃないわよっ!」
美紀は顔を真っ赤にして怒った。「バカにしないでよねっ! 今までたくさんの人と付き合ってきたわよっ!」
「だからっ」
そんな発言が男をその気にさせるんだよ、と言おうとしたら、
「加納くんに何が分かるのよっ! 大体、加納くんには関係ないって言ったでしょっ!」
と噛みつかんばかりの勢いで反撃された。
俺は口をつぐんだ。
……なんでこうなるんだ。
本当はこんな話をしたいんじゃないのに。
俺、あの記録会の日から、本当はお前のことが気になってしょうがなかったんだよ。
お前が他の男と親しくするのは嫌なんだ。俺以外の男とは話もして欲しくないんだよ。
それ伝えたいだけなんだよ……
そんなことを考えていたら、急に美紀が斜に構えて、
「な、なんなら加納くん試してみる?」
と上目遣いに俺を見上げた。
明らかに挑発しているだけだとは分かっていたが、俺はその瞳に吸い寄せられるように美紀に近付き、腕をグイッと引っ張った。
美紀が驚いた顔をしていたが……知るかっ!
誘ってきたのはお前だからな!
俺は美紀の顎に手をかけ唇を重ねた。
でもそれはほんの一瞬のことで、すぐに俺は美紀に突き飛ばされた。
美紀は泣きそうな顔で口に手を当てながら肩で大きく息をしていた。
そんな美紀を見ていたら、ものすごい罪悪感が押し寄せてきた。
俺が何か言う前に、美紀はクルリと踵を返し、走って逃げて行ってしまった。
俺は呆然と美紀が走り去るのを見送ることしか出来なかった。
―――なんてことしたんだよ、俺は……
激しく後悔したが、今さら遅かった。

翌日は最悪だった。
美紀が完全に俺を無視している。
いや、拒絶している。
美紀はプリントを回すときですら振り向かずに、ポイッと手だけで回してきた。それも俺が受け取るか取らないかのうちに手を離すもんだから、何回もプリントが床に落ちた。
俺が悪いのだが、そこまで拒絶されると……かなり落ち込む。
俺は情けない気分のまま放課後を迎えた。
美紀が鬼のような早さで帰り支度をしている。
俺も慌ててカバンを肩にかけた。
どうしても美紀と話がしたかったから、俺は不機嫌そうな顔の美紀を連れて、渡り廊下まで歩いた。
この渡り廊下はあまり人が利用しない場所だったから、話をするには最適だった。
「……なによ」
美紀が怒ったように言う。
当然だよな。
俺は振り向くと、
「イヤ、なんて言うか……昨日は悪かった、な」
と謝った。
するとなぜか美紀は余計に怒ったような口調で、
「別にいいわよ! あんなの挨拶よ、挨拶!」
と肩をすくめて見せた。
挨拶であんな泣きそうな顔するか?
今日1日、あんなに拒絶するか?
絶対強がってるよな? お前。
なんでそんなことしてんのか知らねーけど……
でも今ここでそんなことを言っても、絶対また怒り出すに決まってる。
「そうか……」
と俺は言うしかなかった。
しばらく二人で黙っていたら美紀のケータイが鳴った。
美紀はカバンを探りケータイを取り出した。表示を確認し、ちょっと俺の方を気にしながら後ろを向いた。
「健二? どうしたの?」
健二からかよっ!?
やっぱ連絡取り合ってんのか?
騙されてるって言ったのに……っ
そいつお前のカラダ目当てだぞ!?
イライラしながら通話が終わるのを待っていると、
「えぇっ?」
と美紀が鋭い声をあげた。「ちょっと待って! 今どこの病院なの?」
病院?
「トラックに接触したって…… ちょっと、落ち着いて!」
え? 事故にでもあったのか?
俺は緊張して会話を聞いていた。
「分かった、三橋病院ね。場所は―――」
と言ったところで、美紀のケータイから電子音が響いた。
電池切れだ。
美紀は、
「ウソでしょ? ちょっと待ってよ」
と泣きそうな顔でケータイのボタンをいじっている。
「どうした?」
美紀は俺の声は聞こえていないらしく、
「三橋病院ってどこよ。健二……っ」
とケータイを握りしめてうろたえている。
三橋病院といえばここから10キロほどの所にある救急指定病院だ。
ただ、どの駅からも離れているためアクセスが悪い。
タクシーを使うのが1番いいかもしれないが……
そこまで考えてから、
「ちょっと待ってろ!」
と美紀に声をかけた。
「え? 何よ、今それどころじゃないのよ!」
美紀は今にも泣き出しそうだ。
「いいから待ってろよ!」
俺はそう言い捨てると、2年の教室の方へ走り出した。
階段を3段飛ばしで駆け上がり、2年B組に飛び込む。
「中谷さんっ!」
俺は上級生のクラスなのも構わずに、大股で教室内に入っていった。
「あれ、高弥? 珍しいね、2年のクラスに来るなんて」
中谷さんは帰り支度をしているところだった。
「そうだ、洋子に聞いた? 6月に生徒会役員を新しく決めるんだけど……」
「中谷さん、今日バイク乗ってきました?」
俺は中谷さんの話を遮って聞いた。
中谷さんは中等部からの先輩で、一緒に生徒会役員をやっていた間柄だ。
俺が2年で副会長をやっていたときには中谷さんが会長だった。
中谷さんは意外にもバイクや車が好きで、16になったと同時にバイクの免許を取っていた。18になったらA級ライセンスを取ると豪語している。
「うん、乗ってきてるけど……」
「貸して下さいっ!」
「? いいけど……なに? どうしたの?」
「ちょっと今説明してる時間ないんですっ」
俺は中谷さんが出した鍵とヘルメットを引ったくるように借りると、急いで教室飛び出した。
まさかあいつ、どっか行ったりしてねーだろうな……
そんなことを考えながら渡り廊下に急ぐと、美紀はちゃんとそこで待っていた。
俺を見上げる美紀の瞳が潤んでいた。
くそっ。かわいいじゃねーか。
なんであんな男のことでそんな顔するんだよ!
俺は内心ふてくされながら、
「来いっ!」
と美紀の腕を引っ張った。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
俺に腕を引っ張られ、転びそうになりながら美紀はついてきた。
駐輪場まで来たところで美紀にヘルメットを被せる。
「これ……誰の?」
「先輩の。借りた」
俺はそう言いながらバイクにまたがった。
ヘルメットは1つしかないから俺はノーヘルで行くしかなかった。
イグニッションキーを回し、セルスターターを押す。エンジン音が鳴り響いた。
「これだったら15分かからないで三橋病院に着くから!」
と言いながらミラーの位置を確認した。
ふと振り向くと、美紀はまだそばに突っ立ったままバイクを眺めている。
何やってんだよ?
あの男が心配で病院に行きてーんだろっ!?
「早く乗れよっ」
と俺が怒鳴ると、美紀は慌てて後ろにまたがった。
制服のスカートがめくれ、日に焼けていない真っ白な腿が視界に入る。
俺はそれを見ないようにしてちょっとだけ振り返ると、
「行くぞっ」
と声をかけた。
美紀は俺が座っているシートのあたりを手探りしている。
ったく……
俺は美紀の腕をつかむと、
「ここっ!」
と言って俺の腰に回させた。
美紀が俺の背中に張り付くのと同時にアクセルを全開にし走り出した。
走っている間、美紀は恐怖のためか凄い力で俺にしがみついていた。
好きな女が別な男に会いに行く、という最悪な状況なのにもかかわらず、腰に回された美紀の腕に俺は幸せを感じていた。
―――バカだよな……

病院の入り口前で美紀を降ろした。美紀が走り出していく。
俺は溜息をつくと、バイクを駐輪場に止めに行った。
三橋病院は救急指定病院で、救急車のサイレンがひっきりなしに鳴り響いているような所だった。
一体、健二はどんな事故を起こしたのか。
トラックがどうのとか言っていたが……
一瞬最悪な事を考え、しかもそれを望んでいる自分がいる事に気付き俺は落ち込んだ。
―――最低だな、俺……
一般外来の入り口を入ると、まだそこに美紀がウロウロしていた。
「どこ?」
俺は足早に美紀に近づいた。
「わかんない……」
瞳に涙をためている。
だから、そんな顔するなって。
俺は舌打ちすると、近くを歩いていた看護士に救急処置室の場所を聞き、ぐずぐずしている美紀の腕を取り歩き出した。
救急処置室の前に健二が座っていた。足に包帯を巻いている。
どうやら命に別状はないみたいだな。
美紀は駆け寄ろうとしてその足を止めた。
そばに別な女がいたからだ。多分あれがみちるという女なのだろう。
美紀は目を見開いてその場に立ち尽くしていた。
俺は声をかけることが出来なかった。
健二とみちるは揉めているようだった。
「健ちゃん! どこに行くつもりだったのよ!」
「どこでもないって」
健二はヘラヘラしながらみちるの手を取っている。みちるはその手を振り払うと、
「うそっ! 知ってるんだからね! 美紀の高校に行こうとしてたでしょ!」
と叫んでいる。
ったく、最悪な男だな。
なんでこんなのと付き合ってたんだよ、お前は……
と思っていると、健二が美紀に気がついた。
美紀が再び健二の方に歩み寄る。
「健二、大丈夫なの?」
と美紀が言ったとき、
「美紀ッ!」
と叫んだみちるが美紀の頬を平手で殴った。
あまりにも咄嗟のことで俺も美紀も動けなかったが、美紀は気丈にも悲鳴ひとつ上げずその場に立っていた。
それが余計にみちるを逆上させたのか、
「美紀! もう健ちゃんのこと惑わさないでよっ!」
と怒鳴った。
みちるが半狂乱になりながら喚いているのを健二が制しようとしていたが、みちるは聞かなかった。
「ねぇ、健ちゃんのこと大して好きじゃなかったんでしょ? だからもったいぶってヤラせなかったんでしょ?」
みちるが美紀の肩をガクガクと揺さぶる。
「みちる、よせよっ」
「でもね、安心して! 健ちゃんだってべつに美紀のこと好きでもなんでもないから! だた美紀のカラダに興味あっただけなんだから!」
美紀は放心したように無表情でその場に立っていた。みちるに殴られた左の頬が赤くなっている。
「みちる、もうやめろよ……」
健二がみちるの腕を取った。
「なによっ! 健ちゃんだって言ってたじゃない! あたし聞いてたんだから! 別れる前に美紀とヤッっておけばよかったって―――きゃぁっ」
喚き続けていたみちるがよろけて壁に手をついた。
……気が付くと俺はみちるの頬を叩いていた。
美紀も健二も驚いて俺を振り返った。
俺も女を殴るなんてことは初めてで内心驚いていたが、そのまま構わず健二に近づいた。そして健二の胸倉をつかみあげて、
「てめえの女の教育ぐらいやっとけっ!」
と怒鳴った。
健二は震えながら小さな声で、悪かった、と呟いた。
美紀が固まったまま俺を見上げている。
まだ怒りは収まらなかったのだが、仕方なく健二をつかんでいた手を離した。
健二が崩れるようにその場に座り込む。その健二の足元で、みちるがすすり泣いていた。
最悪の状況だった。
すると美紀が健二に近づいて、
「……あたしたちもう終わってるよね」
と静かに言った。「健二だって本当は分かってるんでしょ?」
おい、お人好しにもほどがあるぞ?
こいつ全然そんなコト分かってねーよ。
スキあらば……って、お前のこと狙ってるようなヤツなんだぞ?
健二はそれについては何も答えず、
「みちるが言ったことは全部ウソだから。でも、ゴメン……」
と肩を落とし美紀に謝ったあと、チラリと俺の方を見た。
……てめ、本当に諦めたんだろうな?
俺が上から睨んでやると、健二はすぐに目をそらした。
美紀は健二に別れを告げると、さらにはみちるのコトを気遣ってやれというようなことを言って、健二の前から離れていった。
俺は健二に、
「お前……二度とあいつの前にツラ見せんなよ」
と睨みつけてから急いで美紀の後を追いかけた。
美紀はものすごい早さで歩いていた。
俺は声をかけようとして伸ばしかけた手を引っ込めた。
必死で耐えている美紀の背中が切なすぎて、どう声をかけていいのか分からなくなってしまったからだ。
病院内では気丈にしていた美紀が、駐輪場まで来た途端しゃがみ込んだ。
そして聞いている方の胸が苦しくなるような嗚咽を漏らし始めた。

美紀はいつまでもそうしていた。あたりはすっかり暗くなっている。
俺はすぐそばの花壇の縁に腰を下ろして美紀のことを眺めていた。
泣きたいだけ泣けばいい。
それで、あんな男のことなんか忘れちまえよ。
べつにあいつじゃなくてももっといい男いるぞ? 
お前、もっとまわりよく見てみろよ。
ほら、後ろの席の男とかさ……
なんてことを考えながら美紀のことを眺めていたら、急に美紀が顔を上げた。
そしてキョロキョロとあたりを見回し、俺の姿を見つけるとゆっくりと立ち上がった。
俺も立ち上がり美紀の方に歩いていった。
美紀はまだ赤い目のまま、
「……そこにいたんだ。どこかに置いて来ちゃったかと思った」
と言った。
俺は忘れ物かよっ!?
気を取り直しながら、
「気が済んだ?」
と声をかけると、
「―――うん」
と美紀は指の先でまぶたを押さえながら肯いた。
そんな姿を見ていたらどうにも気持ちが押さえられなくなって、気が付いたら俺は美紀の頭を自分の胸に抱き寄せていた。
美紀は驚いて身を硬くしていた。
しばらく居心地悪そうにしていた美紀だったが、
「……あたし、説教されるんじゃないの?」
と呟いた。
説教?
何で急にそんな話になるんだよ?
俺はおかしくなってちょっと笑いながら、
「なんで説教?」
と聞いた。
すると美紀は顔を上げて言った。
「だって、昨日あたしに説教したじゃない」
……?
説教なんかしたか? 俺……
「お前あの男に騙されてるぞって」
ああ…… あの話か。
あれは説教というか……ただの俺のヤキモチなんだが。
「うん。言った」
俺がそう答えると美紀は、
「ほら俺が言った通りだったろ、って思ってるでしょ?」
「うん。思ってる」
なんか、いちいち確認してくる美紀がかわいくて、俺は思わず微笑んでしまった。
俺が笑っていると、美紀は気まずそうに視線をそらして、
「……あたしのこと、バカな女だ……って思ってるでしょ……」
俺は笑いをかみ殺しながら、
「思ってる」
と肯いた。
俺がそう答えると美紀は急に頬を膨らまして、
「じゃ、ほっといてよ!」
と俺の腕からすり抜けようとした。
俺は慌てて美紀を背後から抱きしめた。そして美紀の栗色の髪に顔を埋め、
「……お前みたいなバカな女には、俺ぐらいの男がいて丁度いいんじゃねーか?」
と言った。
美紀はしばらく俺に抱かれたまま大人しくしていたが、
「……もしかして、あたし……口説かれてるの?」
と聞いてきた。
ストレートだな、おい!
「……そう思っていいんじゃない?」
俺はそう言って、美紀を俺の方に向き直させた。
俺を見上げる美紀の瞳が微かに揺れている。
やっぱり、誘ってるだろ? その眼……
俺は美紀の頬を両手で包み込むと、ゆっくり顔を近づけていった。
一瞬迷った後、美紀も瞳を閉じてくれた。
俺たちはそっと唇を重ねた。しばらくそうした後、どちらからともなく唇を離す。
ちょっと見つめて俺はもう1度美紀にキスした。
チュッときつく吸い上げてから美紀の顔を見たら、瞳が潤んでいた。
それが俺のために浮んだものだと分かったとき、俺はたまらなくなって何度も向きを変えて美紀の唇を食んだ。
美紀も俺の首に腕を回してきて、何度もそれに応えてくれた……


「加納くん、帰ろっ!」
美紀が後ろを振り向いた。
―――俺たちは付き合うことになった。
あの陸上記録会の日を思うと夢みたいだ。
と、それはいいのだが……
美紀が思った以上に積極的で俺は正直焦っていた。
いや、イチャイチャすること自体はべつに嫌でもなんでもないというか……むしろ望むところだ。
問題は、美紀がそれを人目を気にせずするということであり、俺は焦ってしまうのだ。
大体俺はそういうキャラじゃない。
自分で言うのもなんだが、どちらかというとクールな方だと思っている。
……頼むから人前でキスをせがむのだけはやめて欲しい……
美紀の家は俺の駅より2つ手前にある。
いつもは朝日ヶ丘の駅で別れるのだが今日は、
「ね、今日ウチに誰もいないの」
と美紀に誘われた。
―――そういう誘いなら喜んで受けるつもりだ。
美紀の家は例の公園から歩いて5分ほどの所にあった。
「あの茶色いのがウチよ」
美紀が俺の手を取って歩く。
いよいよかと思うと緊張してきた。
なんか俺、手に変な汗かいてねーか……?
家の前まで来て美紀が鍵を取り出したとき、
「お兄ちゃん!」
と背後から声をかけられた。
まさか……
と思いながらゆっくりと振り向くと、由加が立っていた。
「何やってるの? お兄ちゃん」
由加はここ朝日ヶ丘でバレエを習っている。
よく見ると、美紀のウチと練習スタジオは目と鼻の先にあった。
今日は練習日だったのか……
「もしかして……彼女?」
俺と美紀が手をつないでいるのを見て、由加がニヤニヤしながら言った。
「いやっ」
と俺が焦っていると、
「そうよ、ヨロシクね!」
と美紀は由加に笑顔を向けた。さらには、「良かったら、お姉ちゃんち寄ってく?」
と笑顔で由加を誘ってしまった。
え? そんな……
由加がいたら……イロイロと……その……
―――都合悪いだろ?
俺がよほど落ち込んで見えたのか、由加は、
「お兄ちゃんに悪い気がするけど……」
と言いながらも結局は、「じゃ、ちょっとだけ〜♪」
と俺と美紀の間に入ってきた。
遠慮しろよっ!
9歳の妹を本気で追い出すことも出来ず、仕方なく3人で美紀の家に行った。
玄関で靴を脱いでいると、由加が突然声をあげた。
「あ! 由加のカサっ!」
「え?」
美紀が驚いて由加の顔を見る。「ゆかちゃんっていうの?」
由加は美紀のウチのカサ立てからピンクのカサを取り出した。レッスンバッグを横に置きカサを広げる。
「あ〜! やっぱり由加のカサだぁ!」
と由加は大袈裟にカサを抱きしめた。
美紀を見ると何がなんだか分からない顔をしている。
「お兄ちゃんさぁ、このカサあの雨の日に電車に忘れてきたって言ってなかった?」
「……そ、そーだっけ?」
「そうだよ! 春休みん時。忘れちゃったの?」
美紀が俺の顔を見つめている。
これ、説明しないとダメなのか?
なんか、黙ってた方が格好いい気がするが……
俺は仕方なく傘を置いていった状況をボソボソと白状した。
俺の話を聞いた美紀の瞳がまた潤んでかすかに揺れ始めた。
「加納くんっ!」
と美紀が俺に飛びついてきた。
美紀は由加がいるのも構わずに、強く俺に唇を合わせてきた。
ちょっと待て、由加が……っ!
と焦っていると、
「……あ、あの〜、やっぱり由加、帰りま〜す」
由加はカサを手にして玄関を出て行った。
―――兄思いのいい妹だ。
俺は玄関のドアが閉まる音を聞き届けてから、心おきなく美紀と唇を重ねた。
「……加納くんのキス、大好き」
美紀が潤んだままの瞳で俺を見つめる。俺は、
「……キスだけ?」
と言いながら美紀の首筋に顔を埋めた。
「全部……」
加納くん、と言いながら美紀が俺の首に腕を回す。
「……そろそろ高弥って呼んで欲しいんだけど」
「……高弥」
美紀の声が頭の奥で痺れるように響いた。
我慢できなくなった俺は、美紀を玄関の上がり口に押し倒そうとした。
その瞬間、視界に赤いものが映った。
―――…由加のレッスンバッグだった。
そのとき、遠慮がちに玄関のドアが開いた。
「……お兄ちゃん? ゴメン。カバン忘れちゃった……」
「…………」
俺は大きな溜息をついて美紀から体を離した。

きっと、相当情けない顔をしているに違いない。

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